屋久島に来て感じているうちに書き留めてみていたい
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都会から離れた場所では自分は生活能力が落ちる
もっというと自分の長所を活かしにくい
仮に音楽とか絵など一芸に秀でている人々が自給自足の山の集落に入ったとしても
衣食住全般をバランスよく生活でまわせてないと能力が評価されない
自分が立ち寄った集落は薪をつくらないと風呂に入れない
畑で自給自足する、便所も汲み取りで自分で回収しないといけない
携帯電話も通じない、wifiもなかった
都会では仕事を分業化してるから、こういった衣食住を全て自分で回すようなことはしなくてもいい
弁当はコンビニ、排泄物はバキュームカーが回収してくれる、風呂もボタンを押せば湯が沸く
そんなことを感じつつある
自分が住めるのはやはり人種や文化・宗教の多様性で、つまり社会の多様性
自然の世界じゃない、自然の方がはるかに多様性があるけども。
だから養神館と縁ができたんだと思う、合気道に関していえば。
今の合気会の先生が植芝盛平というひとの感覚を残してるか、それはわからない
でも少なくとも自分が感じとれる感性は植芝盛平先生より、塩田剛三先生の感覚に近かった
だから自分は養神館にきた
今はそこまでしかわからない
基本的な疑問が出てくる
植芝盛平という人の感覚ってそもそも現代の日本に残ってるんだろうか
都会に限らず今の時代は蛍光灯があって明るさが一定、エアコンで温度も一定、道もアスファルトで平坦に舗装されている
山道のように、同じ道でも毎日、注意深く下を向いて歩く必要なんてない
都市空間は感覚をできるだけ均質化していく
文明化すればするほど五感、つまり音感、触感など暑さや寒さに対する感覚を狭めていく
感覚は個体差が大きいから社会が大きくなればなるほど他人と共有しにくい
だから都市文明というのは感覚をできるだけ使わないようにさせて発展していく
そして使わない感覚はどんどん退化していく
それで都市生活者の方が感覚が鈍っていく
代わりに都市では言葉はどんどん必要になってくる、概念は共有できるから。
自然に近いところで住んでいると生活に感覚のウェートが占められていく
そうすると喋らなくなる、感覚が言葉を使っても相手に通じるか分からないので。
山に来て一時的だけど言葉が少なくなっていった
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都市で住むにはお金も言語能力も田舎以上に必要になる
お金と言葉は感情や五感と違って普遍的なもの、つまり移ろわない、安定している
でも山に行くとお金も言葉も役に立たない
新聞もない、ラジオもない、テレビもない
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武道家に限らないけど、植芝盛平先生がいた時代の田舎の感覚って今の時代に得られるのかな
生活環境が根本的に違った気がする