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『Subsistence Strategy』
肖像写真に感じられる「緊張」の違い(『自己同一性』)
「緊張」が分散する植芝盛平先生と、「緊張」が頭に向かう塩田剛三先生
それは「身心一如」 と「心身一如」の違いだと話しました(『道元と植芝盛平』)
ではなぜ『こころ』と『からだ』について、このような重心の違いが生まれたのか?
結論からいうと
Subsistence Strategy / 生存戦略 の違いだと思います
植芝家は第一次産業の家系で、塩田家は第三次産業の家系だった
そのため植芝盛平という人は江戸以前の素朴なリアリズムをもっており
塩田剛三という人は江戸期からの都市文明の延長に生きた
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「こころと身体」の関係性について
江戸以前と以後では、明治維新の時以上の変化が起きていた
それは日本史の最大のエポックのひとつだった
江戸以降の日本は統治のため身体の自由度を消し、身体優位から心優位の時代に遷っていきました
そこで、日本人の性質は大きく変わったんじゃないだろうか
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『鎌倉期』
ではなぜ明治生まれの植芝盛平という人が、鎌倉期の道元と同じ『身心一如』かといいますと、
どちらも素朴なリアリズムの人だったというのが共通しているためです
鎌倉時代(1185-1333)は日本が中国からの影響を離れ、仏教においても日本の独自性とリアリズムを確立していった
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『植芝家という家系』
「農」の人、つまり第一次産業の家系
第一次産業は自然との接点があり、コントロールできないエリアに暮らしています。
つまり採算通りにコトが運ばない
そして頭ではない、無意識である身体も自然です
だから現代の我々のように頭で考えてない
それが肖像写真にたち現れている気がします
この人の生活環境は多分に自然性が残されていたのではないか
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『第三次産業』
塩田先生の家系は代々医師の家系、第三次産業です。(※『自然と親性』)
そして東京の前身の江戸は、ほとんどが武士階級の人が住む社会です
だから江戸の社会は、植芝盛平先生が生まれた和歌山の田辺とは違い、完全な管理空間でした
その江戸の延長に塩田剛三という人が出てきた
もちろん塩田先生は令和に生きる我々日本人より、身体優位だと思います
しかし植芝先生よりは心優位でないだろうか
塩田家は代々都市生活者ですから、植芝家より合理性や標準化の感覚が強かったのではないかと想像しています
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『農民社会と武道の邂逅』
ここまで『環境の違い』を説明してきました
そしてもうひとつは「明治」という『時代性』です
これも結論から申し上げますと
『農の世界がついに武道を取り込んだ』
そう考えています
それまでの江戸時代は
『士族社会が武道を取り込んできた』
しかし明治期になると第一次産業の社会から武道家が出てこれるようになりました
武道の世界に第一次産業出身者が出会うことで化学変化が起きて、武道にエポックが起きたのではないか
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江戸時代で様式化されていった武道は、それまでは士族階級だけの思想の影響を受けていた
例えば幕末の新撰組の土方歳三や近藤勇は農家出身ですが、彼らは士族社会に憧れていて、その影響が強かった
明治維新によって四民平等になり、関所がなくなり移動の制限がゆるくなった
環境が変わり『農』の人に武道の間口が開かれた。そこに植芝盛平という人が出てきた
『農』の出身の人が武道の価値観を変えてもいい時代になった
また一般的に士族は幼少期から封建社会に浸かっていて観念的な士族教育を受けています
つまり人間がつくった人工的な社会システムにどっぷり組み込まれている
例えば「切腹」などは観念的でないでしょうか
一方で農民は、生活の中で自然と対峙しなければならない
そこにリアリズムの違いが出た
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『江戸以前と以後』
現代の日本の原型は江戸文化からの継承とよく言われますが、それは江戸や大坂、京都、長崎などの都市文化で、文明化されたもの、都市空間で起きていた言語化されたものについて指しているんじゃないでしょうか
一方で人口の九割を占めていた『農』の人の文化や思想は言語化されていないものが多い
けれど、言語化されてなくても、思想は肉体や生活の中にも存在する
だとすれば、植芝盛平という人を江戸時代からの延長という観点のみで見てもいいのだろうか