『道元』と『植芝盛平』
道元(1200-1253)という人について話します
時代が中世鎌倉なのでさすがに写真はありません
道元禅師は曹洞宗の開祖で日本における禅の創始者のひとりです
彼は『身心一如』と言いました
結論から申し上げますと
植芝盛平先生は『身心一如』、塩田剛三先生は『心身一如』
私はこう考えます
鎌倉期に道元は「身心一如」と言いました
しかし時代が下るにつれ、この言葉は「心身一如」に変化していった
なぜか?
現在の人は、心を先に書いて「心身」と使いますね、しかし江戸以前は逆だった
それは江戸以前の日本人は心よりも身体に重心を置いていたためだと思います
『乱世というリアリティ』
身体は見えるが、心は見えません
乱世の方が社会はリアリティに向かいます
そのため乱世では身体優位、江戸期になると唯心論つまり心優位の時代に向かいます
たとえば刀への態度も、実用性から心の投影に移っていった
武道が様式化していき、個人の感覚よりも合理性や一般化を重視していった。ほかには茶道や建築技術も規格化していった。
建築では測量術や金具・工具の導入など(江戸の規矩術書『匠明』1608頃)
一方で、例えば江戸時代以前の本、室町時代の世阿弥による『風姿花伝』(1402頃~?)は『型』については書いておらず、徹底的な身体論です
『身体という個性』
治世を維持するには人間の集団をひとつにまとめて統制し続けなければなりません
身体の生理、その自然性を素直に肯定できない
うっかり認めれば乱世になる
『身体の制度化』
そのため江戸時代において個々人の『身体の個性』が消えました
つまり『型』による身体の均質化・規格化が始まったと私は考えています
江戸時代に入ると多くの人を統御するために、武士によって身分制度が確立し、様式化によって集団を一定の枠にはめていきました
特定の身分、職業、行動様式という規範が決定され、『型』を見るだけですぐに素性がわかるようになっていった。 『型』がなければ社会の構成員としてはみなされない。そのため、それぞれの規範が道徳や倫理観になっていった
では本当に『型』は身体を抑制し、人の自由を奪うだけのものだったのか?
私はそうは思いません。合気道をする上で『型』の重要性を痛感しています
私は『型』を大事なものだと思っています
では次回以降
植芝盛平という人がなぜ『身心一如』で、塩田剛三という人がなぜ『心身一如』なのか
「時代」と「環境」の点で述べていきます
このテーマは一度で書ききれないので、何回かに分けていこうと思います
次回は、私が実際に経験した『型』のない社会、アメリカについて話そうと思います
『一元論』
参考にですが、『身心一如』も『心身一如』もこころとからだの一元論です
植芝盛平先生は「顕幽一如」と言われてます
顕は「かたち」で、幽は「はたらき」です
「からだ」は眼に見える「かたち」で、「こころ」は眼に見えない「はたらき」です
つまり、顕を「からだ」、幽を「こころ」と訳せば、「身心一如」とも読めますね
顕が先にくるのは偶然でしょうか
塩田剛三先生も『我が肉宮に神宿る』と言われてますから、
『神』を「精神」や「理性」と翻訳すれば、「我が肉体に精神が宿る」とも言えますね
お二人とも「心と身体は関連している」と言っているのは間違いないと思います