ユダヤ・キリスト教世界において
『神は遍在する』
Anytime, anywhere
『神』は過去から未来のあらゆる時間と空間に存在する
『神』の能力は古代から人が求める到達目標になっている
自然科学の世界は常に『神の領域』を目指す
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ユダヤ・キリスト教世界において
人は『遍在する神』になるために
「時空」を人間の意識によって概念的に管理していった
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ユダヤ・キリスト教世界は「時」を直線として視覚化した
過去も未来も無限に拡がるため、両端を切って、初めがあり終わりがあるとした
これが終末論を形づくる
そして西暦にみられるように
ひとつの直線は過去から未来へ一貫して延びてゆく
これがひとりの人間が生まれてから死ぬまで
生涯変わらないと仮定される
「個性 / Individuality」と「自己同一性 / Identity」
という思想につながる
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もし生まれた時の「変わらない自我」が
仏教の「無我」の様に絶えず変転してしまうと
最後の審判でキリストが人に責任を問えない
だからユダヤ・キリスト教世界では
主体は生涯変わってはいけないとされている
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またユダヤ・キリスト教が生まれた当時
都市国家が成立し、すでに情報化社会だった
ひとりの人間が生まれた時
その初期値を固定しないと個人情報にならない
人が「無我」 では情報として扱えない
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時間を直線という長さとしてみると、そこに繰り返しの「単位」が生まれる
それが「歴史の法則」という思想につながる
キリスト教もマルクス思想も同根で
過去から未来への歴史を段階的に仮定し
ダーウィンの進化思想も
直線という時間概念の上で生まれていった
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その直線をインド文明は丸めた
それが「輪廻」という繰り返しの思想を示した
ユダヤ・キリスト教圏と違い
インドは歴史の概念をもたない国といわれるが
視覚的な線として時間を捉え
時の世界に法則性を見つけようとする態度に
両者は変わりがない
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眼の世界はあらゆるものを凍結する
ユダヤ・キリスト教世界はあらゆる時空を「永遠」として停止できるものと捉え
過去から未来への「時全体」を凍結した
つまり時を「直線」として捉え、視覚化した
視覚表現に変えた瞬間にあらゆるものは止まる
凍結してようやく時間は情報として扱えるようになった
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しかし時間というのは本来、視覚化できない
聴覚にしか時間は存在しない
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視覚は光の世界、そして聴覚は音の世界
つまり
眼は「量子」により「かたち」を、耳は「波」によって「ながれ」を捉える
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視覚はデカルト座標で空間の位置情報を、聴覚は極座標で距離と角度を把握する
耳は「運動量」を捉える
「運動量」には速度が関係し、「単位時間」を必要とする
でも視覚には「時間」がない
そのため視覚に「運動量」はなく「流れ」を捉えられない
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だから視覚が認識できるのは
機能(ながれ)ではなく、構造(かたち)にすぎない
「流れ」を「かたち」にはできない
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それにも拘らず
聴覚で捉えた現象を視覚化しようとするのは
情報化するため
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現象は常に流れているが
視覚的に固定しないと情報としては扱えない
そして聴覚言語では固定しきれず、情報が変化しやすい
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当時のユダヤ・キリスト教世界はすでに情報化社会だった
視覚による文字言語によって、情報が安定して管理される必要があった
ユダヤ・キリスト教圏は世界の情報化を優先し
聴覚よりも視覚優位の文明圏として成立した
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