視覚と時の世界

 

写真を一秒間に24枚流すと映画ができる

 

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写真は時を凍結し、映画は時を流す


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眼は空間を、耳は時間を捉える

 

眼の世界は全てが停止していて、耳の世界は全てが流れている

 

世界が動いているからこそ、視覚は時を感じられる

 

もし世界が凍結していたら、眼だけで時は感じられない

 

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純粋に言えば、時というのは本来、耳でしか捉えられない

 

世界が「動く」ことで、眼は間接的に」時間に気がつく

 

 世界が凍結すれば、時は「変わらない永遠」となり

 

 世界が動けば、時は「一瞬が連続する世界」となる

 

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だから視覚世界の時は「永遠」か「一瞬」しか存在しない

 

写真一枚だけに注目すれば時空は凍結され、「永遠」となり

 

連続写真の中の一枚として写真をみれば、時空は「一瞬」となる

 

「永遠」には運動がなく、「一瞬」は運動が停止している

 

つまり視覚には、間断なく切れ目のない「ながれ」というものは存在しない

 

 

それが眼という世界

 

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ユダヤ・キリスト教世界は、

 

時の世界を凍結可能な「永遠」として捉え

 

日本の世界は時の世界を、

 

絶えず変化する「一瞬々々の連続」として捉えた

 

 

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時は常に動いている

 

だから聴覚世界で時は途切れない

 

耳の世界に「一瞬」と「永遠」は存在しない

 

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でも視覚世界には「一瞬」と「永遠」だけで

 

視覚が表現できるのは

 

「運動が一時停止した一瞬」と「運動が存在しない永遠」

 

しかない

 

だから耳から聞こえてくる「飛んでいる矢」を

 

絵に描くと矢は停まってしまう

 

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ユダヤ・キリスト教世界は概念として時を捉え、視覚表現に置き換えた

 

西暦にみれるように、時をひとつの直線と捉え

 

そして過去から未来へ、時全体を「絵」として凍結させた

 

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時が止まれば空間も止まる

 

 

ユダヤ・キリスト教世界では全ての時空が凍結している

 

時空が「永遠」になっている

 

西洋庭園に行くとそういう世界観が感じられる

 

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日本の世界では、時は常に流れている

 

そもそも人が実感として時を感じられるのは現在この瞬間しかない

 

  日本の時の世界は、この実感の方を採用した

 

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そして空間に時を流した

 

時の流れを感じるには、時のどこかを停止させなければならない

 

日本の「時」は「現在」という時の瞬間だけを停止させ

 

そこを「永遠」とした

 
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 過去と未来には時が流れている

 

過去からひとつひとつの叙景が、川の流れのように絶え間なく訪れて

 

現在の眼に写り、そして未来へと流れていく

 

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日本の歴史観は常に、今という瞬間の視点からモノをみる

 

 そこには未来もなく、過去もない

 

今という時だけが間断なく続いていく

 

日本には「永遠としての現在」しかなく

 

今この瞬間は、この場所でしか出会えない

 

 

一期一会の世界

 

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