日本の庭園には「時」がある
それは歩くことを前提に創られたため
そこには過去も未来もなく、
感じられるのは「現在」だけ
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人が本来、時間として実感できるのは「今」というこの瞬間しかない
過去は記憶の産物で、未来というのは記憶のシナリオにすぎない
過去も未来も実感として感じられるわけではない
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日本庭園を歩くとき、その叙景は刻々と移り変わってゆく
一瞬々々の感動が一歩踏み出すたびに続く
今そこにあるのは
「現在」
そう聞こえてくる
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西欧文明の西暦という「時」は、
過去から未来をひとつの直線として捉え、「現在」を「時の一点」とした
そして過去と現在との間に因果関係を結んだ
しかし日本文明は「時」というものをそのようには捉えない
この国に存在する「時」は直線ではなく、ひとつしかない
それは「永遠の現在」
そこには過去も未来も存在しない
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“ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず
淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたりけるためしなし”
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日本の「過去」はどこからか流れてきて
「現在」に飲み込まれ、そして未来へと流れてゆく
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永遠として「現在」のみが存在し
天皇は「永遠の現在」ゆえ万世一系となり
年号は常に「現在」として刷新される
そして靖国神社に参拝する
そこには過去にあった軍国思想とのつながりはなく
「今」を生きる我々が英霊を奉慰するために足を運んでいる
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日本文明の歴史は「現在」という瞬間を今でも永遠に感じ続けている