ダイアン・アーバスは一般的に被差別民やアウトサイダーを撮影した写真家として有名だけど
彼女が撮った人は普通の人でも普通に見えない
アーバスによって撮られた被写体って、本人は普通にしているつもりなんだけど、どこか違和感が残る
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このカメラマンはモデルとつながってないというか、被写体を突き放して見てる
『カメラマンが感じるモデルに対してのイメージ』と 『モデル自身が思っている自分自身のイメージ』との間にズレがある
つまりモデルの人たちの
『人から見られてる自分』と『自分自身が見ている自分』のイメージが一致していない
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江戸時代の日本には『人から見られてる自分』のイメージを社会的に固定させるために身分制度があった
明治維新で封建制度が崩れた時、そのイメージは社会的に固定されなくなった
代わりになるものとして、夏目漱石は社会に『自我』というものを固定させようと文学で追求した
そして胃潰瘍になった
『自分自身がみる自分』をいくら追求していっても、玉ねぎを剥いていくように何も残らない
そんなものは所詮他人には無関係だし、本人が死ねば消えて無くなる
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『人から見られてる自分』だって、江戸時代の人は身分に応じて自分のイメージを守ればよかった
身分制によって一人ひとりの社会的イメージが制度化されていたから、「武士は武士らしく」というように振る舞えばよかった
でも社会によって制度化されていなければ、本来それはコントロールが効かないし、特定できるわけがない
アーバスの設定した問題そのものが、そもそも問題を解けなくしている
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この写真家って、本人自身がぬいぐるみ着て生きてるような感覚があったと思う
人の内面を撮る作家というより、自分自身の内面が被写体に投影されている
だから普通の人を撮っても狂気に写る
この人の写真って、なんだか仏教を連想させる